きみのそら ぼくのそら

姉との生活の様子を綴ります

逆襲のシャアについて(前編)

前回、ガンダムを履修中であることを執筆しましたが、その中でも逆襲のシャアに自分の価値観が変わる程の魅力、影響力を感じたのでまとめてみることにしました。

 

作品の背景

「英雄叙事詩

「君はまだ、本当のガンダムを知らない__」

と打ち出され、「アムロとシャアの決着」という超重大な主題をひっさげて1988年に公開された本作ですが、当時のファンからの評判はふるわず、配給収入はファーストの劇場版を下回るものでした。自分は当時の様子を知りませんが、渋いメカニックデザインと観客置いてけぼりのストーリーが子供ウケしなかったのだろうと考えられます。が、この作品はガンダムシリーズのご多分に漏れず「何度も見返して魅力を見出す」スルメ作品、それもその真骨頂というべきではないかと思うのです。

 

二人が抱えているもの

アムロ…「現実」「大人」

ララァを忘れずにいるものの、あくまでも一軍人としての務めを貫くアムロは現実を生きるリアリストとしての面が濃く描かれていると感じます。なるべく感情に流されず、シャアの作戦阻止に尽力することだけに意識を注ぐ彼は実に合理的ですが、「アニメの主役」としての熱さが感じられない、これが子どもに好まれない理由のひとつでしょう。しかし、同時にここが俗に言う「歳をとればわかる」魅力になりうるのです。自身の能力に自惚れて怠慢な行動を起こしていた15の少年が戦いを通じて敵を殺して生き抜く覚悟をもち、他人との協調を重んじるようになり、地球に帰ってからはさらに女性関係を形成できるほど社交的になって…そうやって成長してきた彼が政治に就かずに軍人の職を淡々とこなしている様がおじさん世代に重なり、共感出来るのかと思います。ガンダムシリーズを俯瞰して見ている我々にとっては当然アムロは英雄以外の何者ではありませんが、作中での彼は特別賞賛されまつりあげられることもなく、それどころかZでは実質的な軟禁を受けているなど決して好ましい境遇に常在していたわけではありません。連邦の醜い大人にもまれて現実社会を直視した彼が、本質的にはララァが亡くなったときから進んでいないシャアの、あまりにも大規模で身勝手な「暴力」が見過ごせなかったのには、ひとえにシャアに対する思いが強かったのだろうなぁと思います…「なんで俺たちと戦った男が〜」にはその思いが表れているのかなと。結局他人を利用し暴力に頼ることしか出来なかったシャアは殺すしかない。決意してからはただただ敵の撃墜に意識を傾けます。置きバズーカを多用したり僅かな隙も見逃さない殺意マシマシのアムロとシャアの温度差がとても趣深いですね。多分、シャアはアムロを容赦なく殺すことが出来ない。その違いが面白いところです。

 

また、アムロには仕事とは別に地球(地球人)がを護る意図があるのだと。彼が知っているかはわかりませんが地球にはミライさんがいて、その他にも大切な人々がいる。誰かを排除したり一部の特別な人間を崇拝することが人類に誤った道を歩ませることを知っている彼は何がなんでもアクシズを止めるのです。この人間関係や不戦の理想がシャアには無いものです。しかしながら、必ずしもシャアが絶対悪のようには出来ていません。彼の理想と手段を否定するアムロですが、完全に彼を論破できてはいませんでした。シャアに寄った考えはまた別に書こうと思います。それではまた。